地獄の受験勉強、自己肯定と社会復帰

2年の三学期の時点で、僕は留年が決まっていた。
哲学を志向する僕は、大学へ行くことは決めていた。
しかし、僕たちはセンター試験のラストの世代であった。つまり、留年すると共通テストという謎のテストの実験台にされるのである。
したがって、僕は留年を回避する裏技を探した。
それが、「通信制高校への転学」である。
通信制高校では、約2年分の単位を1年で取得することが可能なのである。
ここでミソなのは、「約」2年分である、ということだ。1年あたりの取得可能単位には上限があり、丸々2年分は取得できないのである。
しかし、僕は奇跡的に上限を回避した。それが、クラスメートが僕がいないにも関わらずグループワークを頑張ってくれた保健体育の分の単位であった。彼らには生涯、頭が上がらない。
そうして制度の抜け穴的な部分を突けることを確認した僕は、2年の3月付けで通信制高校へ転学し、受験へ向けて死闘を始める。これが泥沼の地獄であるとも知らずに。

3年一学期
二学期以降を受験勉強に当てるため、単位取得に絞ってひたすらそのための課題をこなした。
体力を取り戻すために一日あたりの机に向かう目標時間を設定し、夏までには6時間を超えられるようになっていた。
ここで、色々な人と出会ったことも触れなければならない。
未成年飲酒や喫煙を当たり前にする人々、おやじ狩りをしたことを自慢気に話す人、学校に馴染めなかった帰国子女、「おれは本気を出せば東大にも行ける」と豪語しながら、まともに課題もできない人。
新宿や渋谷の繁華街で女の子をナンパしてホテルへ連れ込み、その様子を撮影して販売する、なんてアコギな話も耳にした。現役女子高生の制服アリだと15k、なしだと10k、女子大生だと8k、社会人だともう少し安いくらい、らしい。
「童貞卒業したいなら、紹介しようか?」などと耳打ちされたこともある。もちろん断ったが。
ともかく、偏差値72の高校では決して触れ合えない人々と交流を持ったのは特筆すべきことだろう。
ここで僕は、生き方の幅というものを知った。そして、色々な生き方がある中で、それでも大学で哲学を学ぶ意義というものを考えるようになった。

久しぶりの模試、自己否定と他害感情
高3の6月、久しぶりに模試を受けた。


かつての栄華は跡形も無かった。40前後の偏差値を見て、発狂しそうになった。というのも、哲学科のある大学というのは偏差値50を超えないとほとんど無いからだ。
通信制高校なので、周囲は誰も勉強などしていない。それに、適切な受験指導ができる教員もいない。そしてなにより、鬱はまだ治っていない。登校頻度こそ上がっていたものの、毎日登校はまだ厳しかった。
この頃になると、街をワケもなく徘徊するようになった。自殺願望は消えたが、代わりに他害感情が首をもたげるようになった。
人間は抑圧を加害性へ昇華するのだが、それが自分に向けば自殺願望になり、他者へ向けば他害感情になる。
治療によって加害性が自分へ向かうことはなくなったが、幸せそうな人をみるたびに「なんでオレばっかり」という気持ちになり、殴ったり蹴ったり突き飛ばしたりしたくなるのである。
この年、僕はすべての受験校に落ちた。
社会復帰もまだ遠かった。

一浪、そしてコロナ
僕は無事に通信制高校を卒業した。
だから、僕は高校の卒業アルバムを持っていないし、OB会にも登録されていないので同窓会にも呼ばれない。まともな卒業式も無かった。
いずれにせよ、僕の高校生活はこうして終わりを告げた。
この頃には毎日外出することもできるようになり、駿台予備校の浪人クラスの国立コースに認定をもらい、受験勉強を本格化させんとしたところで、コロナ禍が襲った。
この頃の記憶は、ほとんど無い。一週間くらい人と話さず、部屋に籠もって勉強とたまにゲームをしていた。成績は少しずつ上向き、世間の混乱を他所に勉強をしていた。ただ、うっすらと辛くて先が見えなかったことだけ憶えている。
本格的に予備校に通えるようになったのは夏も終わった9月頃であった。
当時は九大文学部を目指しており、一番いい成績でC判定であった。厳しくはあったが、全く受からないとも言えない成績であった。


この頃には毎日八時間は最低でも勉強できるようになっており、精神はかつてより安定を取り戻しつつあった。しかし、高校の友人たちと比べて「取り残されている自分」という意識がいつまでもまとわりついていた。
案の定共通テストには失敗し、私立受験ラッシュで挽回を図ることになる。
國學院や専修、東洋、中央の文学部に合格をもらい、明治と早稲田にしっかり敗北し、あっという間に九大二次試験の前日を迎えた。
鬱状態とは心がうまく働かなくなることである。つまり、感情も上手く働かないのである。
この日、僕は鬱の診断を受けてから初めて泣いた。心の支えにしていた曲を聞いていたら自然とこれまでが思い出されて、2時間たっぷり泣いて、眠りについた。
ここまでの道のりは、多くの人に支えられ、環境に恵まれてたどり着いたものだった。また、その自覚もあった。しかし、それでも最後は自分の意志を貫き通したからこそたどり着いたのであり、これは僕にとって久しぶりの「誇れること」であった。
二次試験では、英語で読んだことのあるBBCの蝗害の記事が出たり、数学でグラフの範囲を作図する問題で提出後に塗り潰す領域を間違えたことに気づいたり、漢文で「出たら捨て」と決めていた漢文学史が出題されてガックシきたり、楽しく受験した。
そうして試験を終え、帰りの荷造りをしているときに、
「今日移動中に暗記すべき英単語は……」と考えている自分に気づいて、少し泣いたあと可笑しくなって笑った。
こうして、一浪目を終えた。

そして、九大は落ちた。しかし、そこまで深い悔いは無かった。

二浪、コンプレックス、迷走
しかし、僕は二浪を選択した。なぜなら、高校の友人達は低くとも明治に受かっていたからだ。有り体に言えば、学歴コンプレックスである。
「鬱のないオレなら受かるはず」と考えたのは無理の無いことだったと思う。
僕は「大学で哲学をやる」という当初の目的から逸れ、「旧帝大(上位国立)に受かる」という目的に魅力を感じていた。結局のところ、過去の栄光の味が忘れられなかったのだ。
國學院に入学しすぐに休学、そして今度は駿台に通って当時読んでいた本の著者の出身であった阪大哲学科を目指した。
二浪目は、特筆すべきことはない。普通の学歴コンプレックス男が、勉強するうちに当初の目的である「哲学を学ぶ」というのを忘れて迷走していることに気づき、阪大を受け、落ちて、正しく負けた上で自分の置かれた境遇に納得するだけの話だ。
それはそれで1つの困難を乗り越えたことになるのだろうが、僕はここにはそれほどの価値を見出していない。恵まれた環境に甘えた上で失敗しただけの話だ。
強いて言うなら、目的と、それを見失わない重要性を学んだ程度である。

こうして、僕は二浪國學院生となった。
「もし鬱にならなかったら〜」を夢想しないと言えば嘘になる。
当時同じ程度の学力だった友人はそれぞれ阪大と京大へ行っているので、それなりのところへは行けたのではないかと思う。
しかし、今の僕はこの経験が無なければいない。そして、この経験はおそらく僕に簡単には獲得し得ない強さをくれていると感じている。
また、この経験から、僕は自由意志を自分の哲学のテーマにしようかと考えている。
もしかしたらいつまでも解答が出ないかもしれないが、哲学的探求という夢を叶えてここにいるのだから、この程度は何でも無い。
こうして僕は、今日も哲学を勉強している。